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「ダウンタウンの理由。」

その1 1995年8月28日号〜1996年1月22日号まで (10回分)



1 1995年8月28日号 NO.17

尼崎という町 尼崎という下町に,ふたりの「ごんたくれ」がいた−。
尼崎の人々の気質。小学生時代。2人の旧友,和田修一氏によるその頃のエピソード
兵庫県尼崎市は,最も大阪らしい下町である。
大谷晃一氏(『大阪学』著者。現在,帝塚山学院大学教授)による尼崎という町がダウンタウンを生んだ理由の考察


2 1995年9月11日号 NO.18


「笑い」に取り憑かれた少年たち。「幻の相方」と尼崎時代の松本・浜田
小学生〜中学生時代。松本人志の「幻の相方」伊東慎二氏によるその頃のエピソード


3 1995年9月25日号 NO.19


初めて「漫才」をした日。
高校卒業〜NSC入学。今宮戎の新人漫才コンクール大賞受賞。この時,故香川氏から握手を求められたそうです。後にも先にも握手を求めたのがダウンタウンだけだったという・・・


4 1995年10月9日号 NO.20


笑わない観客の前で。〜劇場に,たまに若い客がいる時の嬉しさといったらなかった……。
客にはウケず,テレビには出られず,同期の仲間には追い越されていく苦悩の日々


5 1995年10月23日号 NO.21


「もう、やめよか」と呟いた二人。「おもしろかったら勝ちちゃうの,と見ていたんが,そうやなかった…」
大崎洋氏との出会い。たった一度の大ゲンカ。1984年,南海ホールでのイベント『心斎橋筋2丁目劇場』。紳助竜助の解散
6万人の観衆を動かす、ソロ浜田雅功の底力。花道を息を切らして全力疾走。やがて,客席から,彼の声に合わせて合唱が始まった…。
1995年8月に行われた小室哲哉プロデュースのコンサートイベント『TK DANCE CAMP』におけるH Jungle


6 1995年11月13日号 NO.22


浜田雅功、1日だけの「失踪事件」「稽古行く途中頭が真っ白になって,気がついたら神戸に向かってた・・・」
『心斎橋筋2丁目劇場』の本番が直前に迫ったある日の失踪事件。7回行われた公演。満員の観客の中で松本も浜田もスタッフも涙にくれた最終回


7 1995年11月27日号 NO.23


1987年 心斎橋筋がファンであふれた夏。「やりたい放題で,あの頃は楽しぃてしょうがなかった」
初のメイン・レギュラー番組『4時ですよ〜だ』(毎日放送)始まる


8 1995年12月11日号 NO.24


大阪最後の日、松本も浜田も涙を流した。「最終回の日,周りがみんな変わって行くような気がして……」
過酷なスケジュールの日々。東京行き決定。『4時ですよ〜だ』の最終回。そしてその日のうちに東京へ・・・


9 1996年1月1日8日号 NO.1・2合併号


浜田母と松本母、ついに息子を語る!ダウンタウンの「おかん感覚」とは?
コント『おかんとマーくん』におけるおかん的存在
ふたりの「おかん」,息子を語る。
2人の母親,浜田信子さん,松本秋子さんのインタビュー


10 1996年1月22日号 NO. 3


東京の壁(1)「ムリヤリ東京に来さされて,会社に逆恨みしてた頃もありましたね……」
東京進出。『Boy Meets Girls 恋々!ときめき倶楽部』,『夢で逢えたら』のふたつの全国ネットのレギュラー番組始まる





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